2004年の8月、厚生労働省の遺骨収容に通訳として参加させていただく機会を得た。
それまでにも遺骨収容に関わってきたが、実際に自分が現場に赴いてご遺骨と対面したのは初めてのことで、その後もご遺骨に関わっているが、あの時のことは20年以上たった今でも強く印象に残っている。
場所はパプアニューギニアの東端の島、ブーゲンビル島。行政区分的には昔の「北ソロモン州」、いまではブーゲンビル自治領(AROB)の一部だが、2019年に行われたブーゲンビル独立を問う住民投票で独立賛成派が98%という圧倒的勝利を収めたため、今後、ブーゲンビルはパプアニューギニアを離れた独立国家になる可能性を秘めている。
地理的にお隣のソロモン諸島国と国境を接するブーゲンビル島はその旧名の通りソロモン諸島群の北端に位置し、人種的にも、文化的にも、パプアニューギニアよりもソロモンに近く、世界で最も肌の黒い人々が住むと言われる。1980年代の後半にパングナ鉱山での公害問題などをきっかけに独立を求める内戦が勃発し、10年にわたり不幸な戦いが続いたが、基本的には平和を愛するのどかな人たちが暮らす、南国の楽園だ。
ブカ島とブーゲンビル島
菊本さん
この遺骨収容では、厚生労働省の役人の方々に加え、全国ソロモン会の事務局長を務められた菊本亨さんとご一緒させていただいた。
戦友のご遺骨収容やご遺族の慰霊に最後まで尽くされた偉人だった。中途半端な仕事をする人間には、民間人であろうと大使館員であろうと一切の妥協を許さない厳しい方だったが、個人的には、さんざんどやされたあとに見せる優しい笑顔にずいぶんと救われた覚えがある。
村人たちの協力を得て海岸を掘る
そもそもこの案件があがってきたのは、村で土地が狭くなってきて、住居を立てるためにより海岸に近い砂浜を掘り返したところ、思いもよらず人骨が出てきたことに始まる。怖くなった村人たちは、祖父などから日本軍が駐屯していた話を聞いていたので、州政府を通じて日本大使館に連絡、遺留品などから日本人のご遺骨に間違いない、とし、派遣がきまったものである。
ご遺骨を抱きしめる
そしてご遺骨が出てきた。
いまでは骨の専門家が同行し、なおかつDNA検査をするのだが、当時は日本人なのか、現地人なのか、それとも犬猫の骨なのか、正直分からないことも多かった。
でもここの骨はきっちり一メートル間隔で埋められており、認識票やヘルメットなども同時に埋葬されていた。計77体。日本人のものに間違いなかった。
私は、幽霊やスピリチュアルなことが苦手で、実際に骨を手にすると怖いんじゃないか、と恐れていた。
ところが、その頭蓋骨を手にした時、いわれもないいとおしい気持ちが湧いてきて、思わず抱きしめた。怖い思いなどかけらもなかった。
「どうや」菊本さんが尋ねた。
「う、うれしいです」
「そうか」菊本さんが満足そうに笑った。
思いだせば、これが菊本さんと心を通わせた最初の瞬間だったかもしれない。
ご遺族の高齢化でもう終了してしまったが、日本遺族会の慰霊巡拝では、「お父さん」と呼ばせる「儀式」があった。
生まれたときから父親のいなかったご遺族は、60,70歳という、お爺さん、お婆さんの年齢になり、生まれて初めて
「お父さん」と力いっぱい叫ぶのである。
そのたびに私はもらい泣きをし、戦争とはあってはならないものだ、と思いを強くした。
くしくも、今年(2025年)、関西ニューギニア会の慰霊法要に参列させていただいた。
そこで、ご遺族の女性が同じことを仰った。
「はじめて遺骨収集に参加して、ご遺骨を抱きしめたとき、それがお父さんのものかなんかどうでも良かった、とにかく愛おしくて抱きしめました。私の一生の中で最高の思い出です」
戦後80周年を迎える。戦争を知らない世代が大半を占める時代になった。
日本と同じように戦争で大きな被害を被ったドイツも大きく右傾化し、軍事力を強化している。
日本もいつ戦争に踏み切るか分からない。
こういう時代だからこそ、国のために散ったご英霊を思い、そのご遺骨を抱きしめたときの想いを伝えることが私たちに課せられた使命ではないかと思う。
(担当:上岡)
どこまでも明るい現地の子供たち