サー・ジュリアス・チャン元首相の逝去に寄せて

(このブログは2025年2月に更新されました)

サー・ジュリアス・チャン、ひとは愛称を込めてサー・Jと呼ぶ。

広東省出身の父とニューアイルランドのタンガ島出身の母との間に生まれた中華系パプアニューギニア人で、生粋の政治家。1月30日に、地元ニューアイルランドの自宅で家族に見守られ、穏やかに息を引き取られたという。85歳だった。

「誉」と「褒」独立達成と通貨発行

毀誉褒貶相半ばする政治家人生だったと思う。

最大の功績は、ソマレ元首相(チーフ)らと共に成し遂げた1975年9月16日のパプアニューギニア独立だろう。

写真:オーストラリア国旗を降ろし、新国家の旗を掲揚する独立の儀式はサー・マイケルソマレや、サーJたちによる「無血革命」で行われた。

写真:パプアニューギニアの独立式典に参加するチャールズ皇太子(当時。現英国王)

その約5か月前に、財務担当相として、キナと補助通貨のトヤというパプアニューギニア独自の通貨の発行に漕ぎつけたのも、サー・Jの功績といえる。

新しく生まれようとする国家の新通貨を発表した1975年の4月19日の朝、サー・Jに4番目の子供が生まれた。

新通貨の誕生を祝うために集まった閣僚たちは、サー・Jに向かい、この息子を新通貨にちなんでトヤと名付けることを説得し、閣議発表された。閣議発表で決まる子供の名前、というのも珍しいだろう。

「毀」と「貶」ー通貨切り下げとサンドライン危機

自分が作り出した国家の通貨「キナ」を、切り下げることはさぞかし辛かったことだろう。

通貨導入以来、銅の輸出などで好景気を持続させたパプアニューギニアのキナはUSドルと1:1で取引され、かつては豪ドルよりも強かったのだ。それが、ある日突然、切り下げられることになって、インフレがやってきた。

当時2回目の首相だったサーJにとっても断腸の決断だったことだろう。いまだに歴史的な評価は定まっていないが、私としては必要不可欠な措置だったと思う。誰もが手を付けたがらなかったが、国家の将来に必要な法制を思い切ってやった、という意味では消費税を導入した竹下内閣ともダブる。目先の人気取りのために学費無償化や、消費時の廃止を叫ぶ政治家とは桁違いだと。1994年、キナ切り下げのニュースはこちら

そうして、もっと大きな事件が起こった。

こちらも、いまだに評価ははっきりしないが、サーJが矢面に立たされて、面目を大いに失墜したのは1997年のサンドライン危機だろう。

独立以降、パプアニューギニアの外貨収入の大半を占めていたブーゲンビルのパングナ鉱山が内戦によって生産停止となり、国家財政に大きな支障をきたしていた。それを解決しようと、サンドライン・インターナショナルという外国人の傭兵部隊を雇ったのが当時、2回目の首相となっていたチャン政権だった。

これが海外のメディアでリークされると、自分たちの頭ごなしにやってきた「殺人マシーン」である傭兵部隊に対してよい印象を持っていなかった国軍兵士たちが反発。当時の国軍司令長官だったジェリー・シンギロックが、国営ラジオ放送を乗っ取り、チャン首相の退陣を要求した。

この時、私は青年海外協力隊員として首都のポートモレスビーに赴任しており、街を歩くと、サーJと同じアジア系というだけで、「チャイコ、出ていけ」「コンコン」と石を投げつけられた。チャイコ、コンコンとは、中華系、広くはアジア人に対する蔑称である。

町はほとんどクーデター騒ぎである。戒厳令が敷かれ、民間も役所も、スーパーマーケットまでも閉鎖されて、騒ぎが収まるまで自宅アパートで籠るしかなかった。当時ポートモレスビーで活動していた他の他員たちと私が住んでいたアパートで三日三晩徹夜マージャンをして過ごし、食料が尽きかけたのも今ではいい思い出だが、当時は結構シリアスだったのを覚えている。国軍駐屯地の目の前にアパートがあった隊員は、通りを飛び交う催涙弾で目も開けられなかったという。

結局、サーJは、サンドラインによるブーゲンビル内戦解決を中止、本人は退陣、という形で決着を付けざるを得なかった。

後年、当時のことを述懐するサーJの動画、英語ですが興味ある方はどうぞ

本当のところはどうだったんでしょう。

政界きっての頭脳派だったが。。。

テレビで見るサーJの会話はキレキレで、数字に明るく、綿密なロジックで相手を論破する頭脳派でした。官僚や実務担当大臣としては最高の人物だったのでしょう。ただし、多くの党と連立を組んで組閣せざるを得ないパプアニューギニア独自の政治システムの中で首相として長く君臨するには、相手を論破してやっつけるだけでなく、おみこしに担がれるような性格のほうが良かったのではないでしょうか。

そういう意味でチーフの人気にはかなわなかったのかなと、個人的に知り合いだったわけではありませんが、素人考えをしてしまいます。それでも2度も首相になり、亡くなられるまでニューアイルランド州の知事を勤められていましたので、人気がないなどとは烏滸がましくいえる訳もないのですが。。。。

サンドライン危機で梯子を外されたのも、キナの通貨切り下げを実行して痛烈な批判を浴びたのも、国家のためにやったのに、という忸怩たる思いがあったのでは。 

晩年にも連立をまとめる首相に、という話がありましたが、もうそんな時代じゃない、と相手にしなかったのは、再び毀誉褒貶にまみれるのを避けたかったからなのでしょうか?

最後の独立の志士、逝く。

世間の評判は差し置いて、幼い国をまとめ上げて一つの国家を作った努力と功績は計り知れない。

パプアニューギニア人で最初の総督、サー・ジョン・ガイズが夭折し、サー・アルバート・キキが亡くなり、チーフが逝き、そして最後の志士、サーJが鬼籍に入った。

時代は変わった。パプアニューギニアに雪は降らないけれども、明治は遠くになりにけり、の感慨とはこういうものか。

今年の9月には独立50周年を迎えるパプアニューギニア。ハイランド出身者の荒くれもの政治家たちが、目先の金を目当てに群雄割拠する現在のパプアニューギニアはこれからどこへ向かうのか。

こういう時代だからこそ、国家のことを考えて行動した先人たちを偲び、より良い国にしていく気概を持った政治家に出てきてもらいたいものです。

最後になりましたが、サーJのご冥福を心よりお祈りいたします。By 上岡秀雄

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