西村幸吉さんという愚直

土佐の血

大学を卒業して入った会社を3年目であっさり辞め、26歳で青年海外協力隊員としてパプアニューギニアヘ向かうことになった私は、恥ずかしながら、高知県の先人たちの多くがニューギニアで命を落としていたことを知らなかった。

私は大阪生まれの大阪育ちだが、父は幡多郡小筑紫出身。

家族の関係で大阪と高地を行き来していたとはいえ、宿毛中学卒業で、生粋の土佐っ子である。

ちなみに、平安時代に、都落ちをした菅原道真公が、筑紫の大宰府(福岡県)に赴任する道中、豊後水道で嵐にあってこの地に流れ着いた際に、「ここも筑紫か?」と訊ねられたことから、地名が”小筑紫”(こづくし)となった、との伝承が伝えられている。

小筑紫は青々とした山に囲まれた穏やかな入り江に漁船が並ぶ、潮の香りに満ちた風光明媚な漁村である。小学校4年生の時に始めて連れていってもらった時、親戚のおじさんの家でサバの姿ずしを頂いた。

ご馳走になった姿寿司は写真にように上品なものではなく、バッサリ開いたサバの腹の中に酢飯を放り込んだだけの豪快なものだったが、最高に美味しかった覚えがある。

高知県で招集された兵隊さんたちが中心だった南海支隊という部隊があったこと。勇猛果敢であったがために、過酷なニューギニア戦線に送られたこと。そして彼らの多くが戦わずして飢えとマラリアで命を落とし、再び故郷に帰ることがかなわなかったこと。

パプアニューギニアに赴任してから始めてそれらの史実を知り、愕然とした。自分と同じような年齢の、いや、それより若かった兵隊さんたちは、大きな時代の波にのまれ、なすすべもなく、亡くなっていったのだ。

かつては連合軍と日本軍による激しい空戦が行われたポートモレスビー上空。

アパートの窓から西の外を見上げると、夕焼け空は赤い。炎のように赤い。この星の半分を真っ赤に染めている。それよりももっと赤い血が体中を流れてるんだぜ

(The Blue Hearts 「夕暮れ」)

土佐の真っ赤な血が流れている自分がこうしてパプアニューギニアに来ることになったのも何かの縁なのだろう、いや、それ以外に考えられない、そう思うようになった。

そうしてかの地で結婚をし、仕事をするまでになってしまった。

そうして出会ったのが、高知出身の西村幸吉さんである。

ご存じの方も多いので詳しくは控えるが、1942年、ポートモレスビー攻略戦だったココダの戦いにおいて小隊中でただ一人生き残り、帰国途中の輸送船が台湾沖で潜水艦に攻撃されても生き残り、さらに送り込まれたビルマ戦線でも生き残ったという超絶サバイバーの西村さんは、「お前の骨は必ず拾いにくるから」、という同僚との「約束」を守るため、単身でパプアニューギニアに渡り、厚生省(当時)から目を付けられても、「国がやらんからわしが自分でやるんじゃ」と、かまわず独自で遺骨収容を行ってきた執念の人である。

2001年ごろだから、もう80歳を超えられていたはずだが、矍鑠とされており、60歳代と言っても差し支えないほど元気の塊だった。

「いつも腹巻に全財産を入れているんや、ここなら誰もに盗られへんやろう」、と豪語されていて、でもそれを現地人にも言うものだから、滞在していたホテルで強盗に襲われたとき、賊は西村さんのカバンなどには目もくれず、腹巻だけを奪っていった、アッハッハッハ、やられましたわ、なんでわかったんやろうな~~と豪快に笑っておられたのが印象的だった。

満席の飛行機でも乗り込むしぶとさは本物だった

あるとき、日本からポポンデッタへ慰霊に来られた方たちとポートモレスビーで合流された西村さん。ところが西村さんのチケットはキャンセル待ち。「どうしたらええかな」と言われ、航空会社に聞いてみたが、搭乗予定の便はオーバーブッキングになっていて、どうしようもない。

みんなが搭乗していくなか、ひとり残される西村さん。翌日の便ですね、と言って、少し目を離したすきに、西村さんはスタッフの間をすり抜けて航空機へ歩いていくではないか。

あー西村さん、ダメですよ、と呼びかけるが、てくてく歩いていく。

ノー、ノー、ユ~・ドント・ハブ・ア・シート、と慌てて止めにゆくスタッフ。

その時、おもむろに振り向いた西村さんは前の日本人を指さし、「ワン・グループ」と驚くほど大きな声で叫び、にやりと不敵な笑みを見せると、そのままタラップへ。その迫力に唖然と見送るしかない僕たち。

結局西村さんは飛行機から降ろされることなく、パイロットの横にある、いわゆる「ジャンプシート」に特別に座らせてもらい、無事ポポンデッタまで到着し、訪れたご遺族と一緒に慰霊を果たしてきたのだそうだ。

考えてみれば、当然かもしれない。43人の部隊で一人だけ生き残るしぶとい人。台湾沖で魚雷に撃ち抜かれても死なず、損耗率84%のインパール作戦でさえも生き残った西村さんにとって、満席の飛行機に乗り込むくらい、朝飯前だったのかもしれない。

西村さんは60歳になって長年の想いを実現する際、反対する家族と離縁し、長年育てた会社も引渡し、たったひとりで「約束」を果たしにいく。そうして、現地で船の必要性を感じると、宿毛で買い取ったおんぼろ漁船を操縦し、GPSもなしに太平洋の荒波を渡る。船の操縦などしたこともないのに、太平洋で繋がっているから海で行けばいい、とは、破天荒にもほどがありますが、さすが高知県人!!。

その船の管理を任せた若い子に、ここだけは触ったらあかん、と言い聞かせた自沈栓を抜かれて沈没させられたのにもめげず、また船を持ってくる。今度は、その船を地元出身の国会議員に狙われたので、ポポンデッタから遠く離れた港に待避させたら、今度はその管理を任せた人間に騙されて船を再び失ってしまう。

それでもめげない西村さんは現地の若者に技術を教え、学校をつくり、道路を作りながら、遺骨収容に励む。

ココダトレイルを歩いてみた

1996年11月、南海支隊がポートモレスビー攻略を目指したココダトレイルを逆から歩いた。ポートモレスビー郊外のオーワーズコーナーから、オーエンスタンレー山脈を超えるココダまでの96Km、約8日間の、道なき道のりである。

現在ではオーストラリアから老若男女のトレッカーが多くやってくるが、当時は歩く人もまばらで、ハイランドからポポンデッタ経由でポートモレスビーを目指す現地人の若者たちとすれ違った以外、トレッカーは見かけなかった。

道なき道をブッシュナイフで切り開き、橋のない川を渡る。

じゃぶじゃぶ川を渡ったあとの靴は水分をたっぷり含んで、砂袋(アンクルウエイト)でも巻きつけたように重く、足が上がらない。前にそびえる山の斜面は直角にしか見えない。こんな角度を上がっていくのは重力の法則に反している、と嘆いてみても誰も聞いてはくれない。

汗という汗は出尽くして、塩が吹く体に、鬱蒼と茂ったジャングルの枝から、蛭が次から次へと落ちてきては絡みつく。最初は逐一追い払っていたが、途中から、追い払う力さえもなくなり、諦めた。血を吸って満足すれば自分から落ちていくし、べつに死ぬ訳とちゃうし、ええやん、そんな諦観を覚えた。

歩いても歩いても道は続く。苦行である。何のために歩いているのか、どうしてここにきてしまったのか、後悔した。生きるためだ、いや、じゃあどうして歩かなければいけないんだ、意味もなく哲学的な考えがぐるぐると頭をうずまくが、なにはともあれ、鉛のようになった足を前に運ばないとそこで行き倒れてしまう。

ブリゲートヒルの丘の上に、豪州軍の碑があった。

正確な文言は思い出せないが、あの場所で命を落とした若き兵士たちへのレクイエムで、心を大きく揺さぶられた覚えがある。

50年以上前に、この道を歩いた先人たちがいた。それも数十キロにも及ぶ弾薬や武器を背負わされて。食料もろくに与えられず、ふらふらになりながらそれでも歩かされ、多くは故郷や家族にに相まみえることなく、南洋の土となった。それを思うと、自分のリュックだけ背負って歩いて、くじけそうになっている自分が情けなくなり、折れそうな心に鞭を打って、目の前の一歩一歩を踏みしめた。

何がそうさせたのか、別に使命感があったわけでもない。一言でいえば、ご縁、としか言いようがない。

かろうじてココダステーションまでたどり着き、村に一軒しかない「なんでもや」で、埃の被った瓶に入った生ぬるいコカ・コーラをが手にした。

ココダ・ステーションは標高約400メートル。思いのほか涼しい風が頬を打つ。トリバネアゲハ蝶がバサバサと羽音を上げながら飛んで行く。

赤道直下の空は、分厚い入道雲を孕みながら、眩いばかりの陽光を大地に降らせている。

なぜだか涙があふれてきた。長い、長いトレッキングコースをようやく完歩した感動だったのか。それともここまで来ても許してもらえなかった南海支隊の苦しみに想いをはせたのか。コーラをがぶ飲みした。ごくごく飲み干した。生ぬるいコカ・コーラをこれほど美味しいと思ったのは後にも先にもこれっきりだ。

トレッキングコースの途中、整備された豪州軍の慰霊碑ーオーワーズコーナー、ブリゲートヒル、イスラバ、ココダ、そしてボマナ戦争墓地の数々に驚き、日本の慰霊碑がココダの丘だけにしか無いのに落胆した。

豪州軍のココダの記念碑

イスラバの豪州軍記念碑

オーワーズコーナーにある豪州軍のメモリアルアーチ

ボマナ戦争墓地

戦勝国の兵士は称えられ、敗戦国の兵士は打ち捨てられ、英霊に安らかに眠ってほしいと祈ることすら文句を言われる。とどのつまり、戦争とはそういうものだ。そう諦めていたとき、エフォギという村で、「忠霊塔」と書かれた慰霊碑が路傍に佇んでいるのを見つけた。裏を見ると、昭和六十一年 西村幸吉 建とあった。西村さんが私財を投じ、自力で建てたものだった。彼は、老体にも関わらず、険しい山を越え、ここまでやってきたのだ、約束を果たしにやってきたのだ、そう思うと胸が熱くなった。

「誰もやらんからわしが作りにいったんや」ー西村さんの「どや顔」が脳裏に浮かんだ。

スマートに生きたもの勝ち、と言われる世の中だからこそ

そんな西村さんの半生が、日本ではなく旧敵国のオーストラリア人の本によって世間に広く知られるようになったのは皮肉だが、亡くなられる1,2年前だったと思う。

90歳を超え、もう自力では階段を上がれない西村さんは屈強な豪州人に担がれてポートモレスビーに来られていた。失礼ながら認知症も進んでいたのではないかと思う西村さんは、私の姿を遠目に認めると、「あ~カミオカさん、元気でやってますか~。遺骨収容、頑張ってくださいね~~」と大声を張り上げて挨拶された。

僕のような若造のこともしっかり覚えてくれていた。その声は、凛として、かつてゼロ戦が連合軍と空戦を繰り返したというセブンマイルの空に響き渡るかのように力強かった。

恐るべし、西村さん。この人は、自力で歩けなくなっても、まだ遺骨収容のことを考えている、いや、それだけを考えている。誤解を承知でいえば、西村さんにとって、戦友たちとの約束を果たすまで、まだあの戦争は終わっていないのだ、と確信した。その時、私は再び、愚直な、そして誰よりも力強い、誰にも負けない意志の力に心が震えた。

ホテルや航空券の価格、果ては、スーパーの夕方のタイムセールの割引率や開始時間も、AIによるアルゴリズムで決まる世の中になった。

スマートに生きろ、賢く生きろ、と人は言う。

そのうち、人生の最適解をAIが選ぶ世の中になるかもしれない。

戦後、機械製作所を営んで成功した西村さん。ソニー創業者の盛田昭夫さんの良き相談相手であり、マツダよりも早くロータリーエンジンを開発していたという。60歳になった時に、AIに最適解を聞いていたなら、後継者を見つけるか、会社を売却して利益を得、隠居して悠々自適の生活を送りなさい、と言われたことだろう。

そういう生き方もあったのだろう。でも西村さんは、反対した家族に会社をそっくり渡すと、電気も水道もないパプアニューギニアの片田舎 ー 文化も違えば言葉も通じない異国に移住し、手作業で戦友の骨を拾う、というイバラの道を選んだー「あの時、約束したから」という理由だけで。。。

家族から反対され、一人になってもその「約束」を守り通そうとした。

愚と言われようが、馬鹿正直と言われようが、自分の信じる道をまっすぐに貫いた鋼鉄の意思。

皆さんはどう思われますか?

あほうな爺さんと思うでしょうか?

「約束」をしたかもしれないが、相手は全て亡くなった。

家族や孫たちに囲まれ、余生をのんびり暮らせばよかったのに、と思いませんか?

西村さんは、自分が戦後生きながらえたのはあの地で息絶えた戦友たちのおかげだ、せめてもの報いとして、彼らの骨は拾いたい、いつかは、いつの日か。。。。そういった、自分の中にわだかまっていた思いを引きずったまま死にたくはない、そう思われたのではないでしょうか?

僕はそう思います。

それを押し付けようとは思いません。どう思ってもいいんです。でも、そういう生き方もあるんだ、ということだけは知ってほしい、とこの記事を書きました。

こんな世の中だからこそ、西村さんのような「愚直」な生き方から学ぶべきことが多いのではないでしょうか。少なくとも、西村さんを直接知る世代の私には、彼の生きざまを、次の世代に伝えてゆく使命があると、思うのです。

(担当:上岡秀雄)

コメント (1)
  1. 藤田幸生(「悠伯」) より:

    「自分自身にだけは、正直で居たい。」

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