ラバウルが歴史に登場するのは19世紀の末。それまでは人が住まない大きな湿地帯で、現地の言葉で大きな湿地帯=ラバ・バウルと呼ばれていたそうです。
1870年代になってようやく国内統一をしたドイツが、海外植民地を求めて太平洋に進出してきます。パラオ、サモアなどと共にニューギニア島の北部、およびビスマルク諸島を支配下に置きました。いわゆる「ジャーマン・ニューギニア」ですね。


もうそれまでにマレーシアやインドなどで大きな利益を上げていたイギリスなどとことなり、新興のドイツはこれらの新しい植民地で商売を試みました。ニューギニアでは主にコプラ(ココナッツ)を栽培し、それをコプラ油の原料として輸出することでした。

ところが、当時港としていた今のココポの海は水深が浅く、大きな貨物船が出入りするのに適しませんでした。そこでドイツが目を付けたのでが、火山のカルデラでできた天然の良港であるシンプソン湾だったのです。
ここの大きな湿地帯を干拓し、街にすることで、大きな貨物船を出入りさせようとしたのです。それまでラバ・バウルと呼ばれていた湿地帯はいつの間にかラバウルと呼ばれるようになりました。これがラバウルの街の始まりです。


ラバウルはドイツ式の区画整理された通りが整備され、「シンプソンハーフェン」(シンプソンの港)とドイツ風の名前で呼ばれ、1905年にはドイツ領ニューギニアの首都となり、ナマヌラの丘の上にはドイツ人のための住宅が建てられました。
(これが太平洋戦争当時、日本軍の将校用の邸宅として使われた「官邸山」となります)
ココポには瀟洒なホテルが建てられ、毎晩のようにパーティーが行われたと言います。現在、ココポビーチバンガローというホテルが建てられた場所にも、ドイツ時代のホテルが建っていたそうです。
そんなドイツ占領時代も時代の流れと共に移り変わります。
ヨーロッパで発生した第一次世界大戦です。


平和だったラバウルにも豪州軍が攻め入り、少数だったドイツ軍の守備兵を蹴散らした「ビタパカの戦い」が起こります。
ビタパカにはサモアなど他の植民地と連絡をするドイツの無線基地があったので攻撃の対象となったそうです。
ちなみにこの「ビタパカ」は第一次世界大戦や第二次世界大戦の戦死者を祭る豪州の戦争墓地となっています。

こうして太平洋戦争勃発まで豪州の支配下で平和な時を過ごしていくのです。
しかし、1937年にとんでもない天災に襲われます。
続く