さあ、このコラムもそろそろ終盤に差し掛かってきました。今回は、日本海軍が太平洋戦争開戦直後から終戦まで拠点としたを、南太平洋でも最大級の基地があったラバウルの戦跡を紹介していきます。
東飛行場跡
かつて日本海軍の基地として、そして戦後はラバウル空港として活躍した東飛行場、現地名ラクナイ飛行場は1994年の火山大噴火で埋もれてしまい、今は灰に埋まっただだっ広い空き地になっています。

往時の姿が以下の写真。奥に見えるのが、今でも時々噴煙を上げ続けるタブルブル山(花吹山)です。

そうして、これは東飛行場近くのマチュピット島にある爆撃機の残骸。97式重爆(K21 SALLY)です。
おそらく連合軍の爆撃を避けてココナッツ林に隠したところを爆撃されたのだと思います。

以前このブログでお伝えしたように、現地ガイドはゼロ(ゼロ戦)だとか、ベティ(一式陸攻)という人が多いですが、コードネーム「サリー」ですのでお間違いなく。
花吹温泉

東飛行場からさらに奥に進み、海岸線に出ると海水が沸騰してもうもうと湯気を上げています。火山の地熱で温められたこのエリアは、太平洋戦争当時、将兵が「花吹温泉」と名付けて浸かり、心身の疲れをいやした場所なのです。
ただし、海岸すぐ近くは70度ほどありますので、熱すぎて危険です。海水と上手く混ざったエリアを見つければ温泉浴も可能ですのでトライされてはいかがでしょうか?
ちなみに、内陸部のトリウ川近くには、もう一つ、日本軍が愛した温泉があり、こちらは「宇奈月温泉」と名付けていたそうです。どちらかと言えば僕はこの「宇奈月温泉」に行ってみたいと思っています( ´艸`)
小牧桟橋

国際汽船所有の輸送船、小牧丸は将兵や物資を載せ、1942年4月にラバウルに着岸します。しかし荷下ろし中に空爆を受け、4月18日、着岸中の姿のまま戦没。
ラバウル港には小さな船舶に適した桟橋が無かったため、戦後は穴の開いた船体にコンクリートを流し込んで固め、主に現地人によって桟橋として利用されてきました。そのため、ここは小牧桟橋と呼ばれています。ラバウル近くの海で亡くなった方の慰霊を行うのに適した場所として、これまで多くのご遺族の方が訪れられています。
火山観測所(展望台)

火山に囲まれた街、ラバウルに欠かせないのが地震観測所です。これは戦跡ではないのですが、地震観測所の目の前が素晴らしい見晴台になっていて、観光客、慰霊団などが必ずといってよいほど立ち寄る定番スポットになっています。
ここからはシンプソン湾全体が見渡すことができます。
また、この丘へ登ってくる途中に多くの小さなトンネル跡(フォックスホール:もともとの意味は英語で「狐の巣穴」ですが、転じて、兵士が身を守るために作る一人用の塹壕のこと。日本語では蛸壺壕)があり、これも見ものです。
南東方面軍前線指揮所跡の塹壕(通称「山本バンカー」)

塹壕の中へ通じる暗い階段を降りると、中はトンネルのようになっていて、天井にはラバウル付近の地図が描かれており、実戦用の塹壕だったことが分かります。

ここは、戦後、観光地化したい豪州人によって「Admiral Yamamoto Bunker」山本提督の塹壕、と名付けられ、あたかもラバウルを出発して戦死された山本五十六連合艦隊司令長官に所縁の場所、と勘違いされたり、あるいは「山本長官が最後の晩を過ごした場所」と言われることもありますが、実際は関係ありません。
山本長官は確かにラバウルに滞在されたのですが、官邸山(ナマヌラの丘)にある将官用の邸宅に宿泊されていましたので、塹壕に寝泊まりすることはなかった、と生還された兵隊さんからお伺いしたことがありますので間違いありません。
南太平洋戦没者慰霊碑

パプアニューギニアには日本の慰霊碑が二つあります。ウェワクの平和公園内にあるのがニューギニア戦没者の碑。
そして、ラバウルにあるのが南太平洋戦没者の碑です。
碑文には「さきの大戦において南太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび平和への思いをこめてこの碑を建立する」とあります。
深い丘陵の中腹からラバウル湾を見下ろす台地に設置され、大地の一部を切り取って持ちあげた表現をとることにより、大地に眠る死者と、ここを訪れる者との邂逅の場を提供しています。
中心の石碑は死者の霊の安らかなることを祈る心と、未来永劫にわたる平和を誓う心を型にしたもの、ということです。また内側の天井面には、北回帰線から南回帰線までの戦域を表す地図がレリーフされ、地図のラバウルの位置にある空洞から一条の光が内側に注がれるように工夫され、死者と生者をつなぐ意味があるそうです。
さて、今回はラバウルの戦跡をご紹介しました。次回は最終回、とっておきの戦跡をご紹介したいと思います。お楽しみに。。。
(担当:上岡)