太平洋戦争がはじまると間もない昭和17年1月23日、日本軍はラバウル、カビエン(現地での発音はケビエン)を急襲してあっという間に攻略します。これはかつてドイツが目をつけたように、ラバウルは火山に囲まれて天然の良港に恵まれていた他、日本海軍の一大拠点があったトラック島(現在はミクロネシア共和国のチューク島)に近い攻防の拠点だったからだ、と言われています。

そうして、ここを拠点にお隣のガダルカナル島(現在のソロモン諸島)やニューギニア島への爆撃を繰り返したのです。
かの有名な「ラバウル航空隊」ですね。

1937年に大噴火があったばかりのラバウルではこのころも年中火山灰が降るため、機体整備が一仕事で、中国戦線などで活躍したベテラン整備員の助けが必要だったそうです。わずか50機ほどの戦闘機隊でも、整備員を含めると千人近い人数が部隊に所属しており、中でも所属人数が多い中攻隊(陸上攻撃機隊)は数千人を数えたと言います。
そんなラバウル航空隊は、敵機5機以上を撃墜した、いわゆる「エースパイロット」を多数輩出します。
このラバウル航空隊では「大空のサムライ」で有名になった坂井三郎さん、台南空の三羽烏と呼ばれ、敵地であるポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りを行ってから帰還したという逸話を持つ西沢広義さん、202機を撃墜した「本物の撃墜王」岩本徹三さんなど、連合軍のパイロットたちを震撼させたエースパイロットたちが次々と誕生します。
特に昭和18年から内地に転勤するまでの19年2月までの岩本さんは無敵のエースパイロットだったそうです。
レーダーもない時代、ものすごい動体視力と反射神経を持ち合わせていたのでしょう。
ちなみに、私は、西沢広義さんのお孫さんがかつてニューギニアに関わっておられた頃にお会いしたことがありますが、バイクのレーサーであり、一流のスキープレーヤーであった彼は、やはりおじい様の素晴らしい動体視力を受け継いでおられたのでしょう。
しかし、損傷したゼロ戦の復旧には時間がかかり、何時まで経っても部品は到着しない。戦死したパイロットの代わりはやってこない。そのうえ、彼らは敵のパイロットだけではなく、熱帯マラリアを媒介する蚊や、蝿の大群とも戦わなければならない運命にありました。
そんな中からエースパイロットが続々と誕生したのは決して偶然の賜物ではなく、数少ない戦闘機で多くの空戦を行ったため、パイロット当たりの戦闘回数が増え、生き残ったパイロットの腕が磨かれた、ということ、つまりその陰には多くの戦死したパイロットがいた、ということでもあるのですね。そのため、経験の浅い搭乗員の死亡率は高く、「搭乗員の墓場」と呼ばれた、という事実も覚えておくべきでしょう。
ちなみに、敵国であったオーストラリアや米軍のパイロットたちは二週間ほど働くと、シドニーあたりで休暇を取って英気を養い、元気いっぱいに帰ってくるのに対し、日本軍のパイロットは休みなくどんどん疲弊していった、というのは個人の力や機材の良し悪しでは測れない、どうしようもない国力の違い、というべきでしょうか?
そんな彼らが駐屯した東飛行場は灰に埋もれ、西飛行場は草生す平原となり、往時の姿を垣間見ることはできません。まさしくつわものどもが夢の跡、でしょうか?

ラバウルには搭乗員だけではなく、陸軍兵も多く駐屯していました。その数約10万人。このコラムでは現在の飛行場跡などをご紹介する前にまずはそんな駐屯兵たちのラバウルでの姿をご紹介したいと思います。
つづく
(担当:上岡)