日本占領下での栄華
ラバウルを占領した日本軍は戦前の豪州統治を見直し、独自の占領政策を策定しました。
日本軍の統治政策で農業部門では、コメと野菜の生産に重点を置くとし、ケレバット川上流、バタル川流域、ブナカナウ高地などを耕作地として選定し、戦前ケレバットに作られていた農業試験場を中心に農地を科拡大していくこととしていました。
その他、林業、水産業、畜産業の増産、小規模造船場と修理工場、製氷工場、製材工場、発電所の整備なども考慮されていたということです。
また日本軍の進出に呼応して民間会社が多く進出しています。ミクロネシアでリン鉱石の鉱山を経営していた南洋拓殖会社は、野菜、タバコ、カカオの生産、製材所、セメント工場、ホテルを経営。1943年11月現在で92名の社員をラバウルに派遣し、約400名の現地住民を労働者として雇い、土地開墾や農場での労働にあたらせた。同社経営のホテルでは海軍士官専用の理髪所も備え、戦前からラバウルにあったパシフィックホテルを大工を派遣して日本風に改装したものでした。

その他、南洋興発株式会社も進出。貿易、野菜栽培、椰子プランテーション経営、石鹸工場、製材所の経営に従事したほか、コメやカカオの生産も行いました。同社の椰子プランテーション経営では総面積6000ヘクタールの農園で443人の現地人労働者が働いていたそうです。また椰子の実を加工した石鹸工場では2500個の石鹸が製造されました。
高桑産業は1942年7月に進出。内陸部のバイニンを開墾してコメ、カカオ、コーヒー、タピオカ、タロ、サツマイモ、玉ねぎなどの野菜を栽培し、喫茶店も経営していたといいます。どんな喫茶店だったのか、もし叶うなら行ってみたいですね~~
銚子醤油株式会社は1942年10月に進出して醤油の他、味噌、清涼飲料水、菓子などを製造しました。
こういった会社の進出に従って1942年12月、南洋開発銀行のラバウル支店が開設し、軍票の発行などを行っています。
これら民間会社の進出は短期間でしたが、ラバウルを日本人町に変貌させました。開戦時のラバウル周辺の現地住民人口は37000人しかいなかったのに対し、終戦までの日本人人口は陸軍57000人、海軍32000人、1570名の軍属と合計10万人余と膨れ上がったからです。
10万人というと、大阪では河内長野市、池田市、関東なら東久留米市、坂戸市や伊勢が原市レベルだそうですので、結構な街を作ったのですね。
短い間ではありましたが、まさに栄華を極めた、ともいえるでしょう。しかし平家の例を見るまでもなく、盛者必衰は世の理。厳しい時がやってきます。
戦況の変化
1943年末までに制空権を失うとラバウルでの自給体制を確立させるための計画を実行。軍の食料の大半は備蓄用とされ、全将兵が農耕作業を割り当てられるようになりました。その指針は以下の通りでした。
(一)主食は陸稲と甘薯の作付により、副食は養鶏、養豚と野菜の栽培により、調味品は海水より採る塩とヤシの実から採る油をもって充足する。
(二)開墾耕作面積は一人当たり主食のため六十坪、野菜のため十五坪とし総面積2千5百町歩を目標とする。
(三)開墾耕作中主食は軍が一括して実施するも、野菜は各部隊ごとに行う。
(四)ラバウル地区において軍の経営する農場は、タボ、タブナ、ウナリマ、タウリル、ルナパウ、ウルプナの六箇所と予定し、貨物厰、兵站司令部が主体となって実施に当たる。
約2,500haの農耕地を切り開き、自給自足率は50%を超えていました。当時、日本の主要産業は農業でしたし、南方に送られてきた兵隊さんの多くは東北、北関東、四国、九州などの農家出身だったことが功を奏したと言えるでしょう。
一方、海軍は誇り高い技術者集団。壊れた飛行機の残骸から使える部品を集めて、新たに飛行機を組み立てることができました。陸軍には食糧や日用品の備蓄があり、海軍には武器弾薬と燃料の備蓄があったので、犬猿の仲である陸軍と海軍は、ラバウルでは大変珍しく協力関係にあったようです。

陸海軍は協力して、いろいろなものを作りました。主食のタピオカやタロイモ、豆、とうもろこし、野菜、塩、味噌、醤油、椰子油などの食料や調味料、また自活に必要なマッチ、バッテリー液にする硫酸、インク、布まで製造され、当時の日本国内より物資は豊富だったかもしれません。さまざまなものを作るには大量の電力が必要ですが、発電は海軍工作部が担当し、豊富な燃料によって常に電力の供給が可能でした。かと言って、兵士たちは悠々自適に過ごしていたわけでは当然ありません。ラバウルには陸軍7万、海軍3万、合計10万の兵士がいましたが、平均した栄養は1500キロカロリー以下。大人の最低基準は2000キロカロリーですから、重労働を課された兵隊さんとしてはかなり厳しかったことでしょう。ちなみに同じ時期の米国兵は3000キロカロリーを超えていたそうです。腹が減っては戦ができぬ、ではないですが、これでは勝てるわけはないですね~~~。みなあばら骨が浮き上がり、栄養失調で腹水が溜まり異様にお腹が膨らんでいました。さらに兵士を苦しめたのが、ハマダラ蚊が媒介する熱帯の風土病、マラリアです。私も何度もマラリアに罹り、苦しい思いをしたことがありますが、それでも良い治療薬で治すことができました。太平洋戦争当時のラバウルでは、薬剤師などが抗マラリア薬の開発に挑戦しましたが上手くいかず、多くの兵士がマラリアで亡くなりました。


1944年2月にラバウル航空隊がトラックへ後退を余儀なくされるとラバウルは完全に孤立。決戦に備えてラバウルを要塞化することを決め、全長600キロ近くに及ぶ地下トンネルを張り巡らすことになります。

ラバウルは敵の上陸こそ受けなかったものの、爆撃は何度も受けました。今村大将の司令部も被害を受けたことがあり、その経験から例洞窟の防空壕が作られました。
今村大将の司令部は昭和19(1944)年4月にラバウル市街から東南約10キロ地点に移転を余儀なくされます。「図南嶺」と名付けられたこの場所は、司令部の人員約1千人が収容可能で、作戦室、参謀部などが設置されました。
病院施設もすべて地下化され、15カ所の病院は5千5百人が収容可能だったと言います。すべて手作業で行なった洞窟陣地の建設でしたがあったが、その総延長距離は東京から岐阜ほどの長さにも及んだといいます。結果として、ラバウルの将兵は敵を迎えても相当な打撃を与えてみせる、という自信に満ち溢れました
しかし、いくら食糧があり、地下壕をめぐらせても武器がなければ戦闘は出来ません。火薬類も製造することにしました。例えば、黒色薬の材料となる硫黄。これは火山の火口から採取した。木炭は適当な木を指定して中隊が作業にあたり、硝石も技術将校が知恵を絞って集めた。こうして製造された火薬は、終戦までに4トンに及んだと言います。
こうして、輸送なき太平洋の孤島としては出来得る限りの準備を整えて「その時」を待ったラバウルでしたが、ついに敵を迎え撃つことなく敗戦を迎えることになったのである。連合軍はガダルカナルでの消耗戦を教訓として、「飛び石作戦」と展開、ラバウルに日本軍を釘付けにしたまま、北へ、北へと反攻していったのです。
ラバウルは敵中に孤立しながらも、二年間生き続けました。戦争中、通信すら困難な祖国から遠く隔たった島で、軍隊という組織が生き抜くには単に「食料だけあればいい」というわけでありません。10万人が生き延びることができたのは将兵が一致協力して奮闘した結果でしょう。ほんとうに頭が下がる思いです。
さて、次回からは、現在のラバウルで観ることのできる戦跡を順次紹介させていただきます。お楽しみに。
担当:上岡